コンポンチャム州のクメール遺跡調査 その2

クメールの遺跡たち

4. Preah Theat Khtom

自然の丘陵地形を造成した高台上に寺院が造営された珍しい構成です。二重のラテライトの周壁に囲繞された中央に煉瓦造祠堂が建っており、入り口前方には後補のラテライト前室が取り付いています。また、内外周壁間の南側前方にも長手平面の小さなラテライト遺構が配置されています。アンコール時代の字体を示す石碑がサイトには放置されていますが、複数の治世者の名前が連なっており、この地域を支配していた地方統治者であると考えられます。煉瓦造の祠堂内部にはマカラの頭をモチーフとしたガーゴイルらしき石製品が残されており、プレ・アンコール期の遺物にも見えますが、確かではありません。

周囲は一面の水田で、車を降りてからこのサイトまでは約2kmにわたり、細く滑りやすい畦道を歩いてアクセスすることになります。寺院の東と北には長方形の輪郭を取り囲む土塁が築かれており、溜池であったものと考えられますが、特に北方に南北に長い溜池を設けているのは珍しい構成だといえるでしょう。

5. Banteay Prei Nokor

コンポンチャム州でも最も重要な遺址の一つである、ここバンテアイ・プレイ・ノコールはやや歪んでいるものの一辺約2.5kmの方形の環壕と周壁に囲まれた都城址です。プレ・アンコール期の最盛期にあたる三代に渡る王に仕えた人物の本拠地がインドラプラという都市にあったとされていますが、この都市はインドラプラに比定されることもあります。環壕の内部、やや東側には3基の煉瓦祠堂が残されており、そのうち2基は一つのテラス上に隣接して位置しています。いずれもプレ・アンコール期の建築様式を示しています。やや離れて位置する煉瓦祠堂は壁体の倒壊が著しく緊急の支保工などが求められるところです。この煉瓦祠堂の脇には既に倒壊してマウンドと化した遺構が認められますが、近い将来、この残された祠堂も全壊する危険性があります。ここにはアンコール期の明瞭な痕跡は残されていませんが、ポストアンコール期には戦略的に重要な拠点であった記録が残されており、長く重要な勢力拠点であったことが推測されます。

近年、カンボジア政府によって環壕の底がさらわれ、それらの土砂を周壁上に盛るという、行き過ぎとしか思えない整備が行われました。また、煉瓦造祠堂の残るパゴダには立派なヴィハーラが建立され、現在も巨大な涅槃仏が造られているところです。また、文化芸術省より日本の修復隊に対して煉瓦造祠堂の修復工事への協力依頼もされています。聞くところによれば、カンボジアの現首相がこの遺跡の整備に積極的であるようで、歴史上の王にならい、こうした大事業を敢行しているとのこと。現政権の集中と長期化が、不安定な情勢を引き起こさなければ良いのですが。

6. Preah Theat Toek Chha

今回初めて訪れた遺跡でしたが、コンポンチャムの片田舎にこんなに大型かつ複合的な寺院があることに驚きました。東西に長手の二重の周壁に囲まれた境内には複数の建物の痕跡が認められ、建物の数には見合わないより多くの台座が散乱しています。中央祠堂は煉瓦造で、建物自体はアンコール時代のもののようですが、部分的にはプレ・アンコール期の砂岩材が混入している興味深い造りです。おそらく、前身の遺構を取り壊したか崩落した後に、それらの部材を再利用したものと考えられます。また、中央祠堂の南側に位置するいわゆる「経蔵」と呼ばれている建物には、やはりプレアンコール期の碑文が残されていますが、変わった造りの窓が開口しています。


寺院の前方には約500m離れて貯水池らしき土塁が築かれていますが、東辺が認められない上に、土塁の内部も起伏に富んでおり、いわゆるバライと呼ばれるものとは異なるのかもしれません。寺院の北方には一年を通じて湧き出すという泉があり、大きな池が水を湛えていました。このような自然の貯水池が隣接して存在することからも、寺院前方に対をなすように配置されたバライの機能は宗教的な意味に特化していたのではないかと推測されるところです。


また、この寺院の北方、自然の池との間には「パレス」と呼ばれる構成の建物が残されています。一般的に参詣のアクセス脇に配置されるこの建物が、池との間にあることは示唆的で、寺院と源泉との密接な関係をよく示していると考えられます。

7. Prasat Kuk Yeay Hom

バイヨン期の砂岩造祠堂で、屋蓋の上方は崩壊が進んでいます。四方の開口部のリンテルは残存しており、いずれも仏教モチーフが破壊を免れています。祠堂の周囲には複数部材を組み合わせた大型の涅槃仏や板状のヨニ座などが散乱し、プレアンコール期の遺物とポストアンコール期の遺物が混在しています。おそらく現存する祠堂の北西に煉瓦造祠堂があったものと考えられますが、完全にマウンドと化しており、痕跡を拾うのは難しい状況です。

寺院は約500mの環壕に囲まれており、さらにその東側にはバライが築かれています。現在でも睡蓮を一面に咲かせた水面を満々と湛えていました。

以上が、今回訪れたコンポンチャム州内の遺構の主要なものですが、その他に新石器時代の環壕集落跡であるメモットにも足を伸ばしました。早稲田大学の故古城泰先生もこの地域の研究には力を注がれていました。近年のドイツ隊による研究で、さらに複数のサイトが発見されたようで、今後も踏査や発掘調査が期待されます。

残念なことに、私たちが環状集落跡を訪れたまさにその時に、ブルドーザーとショベルカーによって、歴史的に貴重な痕跡が破壊されつつある現場を目の当たりにしました。環状集落の位置する地区の多くは、ゴムのプランテーションが広がっていますが、プランテーションの効率化を図るために、おそらくこの遺跡の存在に気が付かないままに、悪意無く、この痕跡は削り取られてしまっていました。最低限の保護処置と住民への指導があれば、こうした破壊を免れることができたはずですが、残念ながら行政側の適切な処置が無いままに、遺跡破壊が生じています。

これに類した状況は様々な遺跡で大なり小なり生じていることで、数千におよぶカンボジア国内の貴重な遺跡が少しずつ失われている現実があります。上述のサイトのように、不適切な整備による歴史的価値の遺失も同時に進んでおり、地道にでもなんらかのアクションを起こす必要があることを感じずにはいられません。(一)

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