前回紹介したバイヨン寺院,本尊仏発見の物語が,細部においてまったくのフィクションであることは断り書きをするまでもなく,ご了解頂いていることと思うが,もう少し,この時代のバイヨン研究の背景を紹介しておこう。
バイヨン寺院はアンコール遺跡の各寺院の建立編年を考察する上では厄介な存在であった。20世紀初頭の段階では,この寺院は9世紀に建立された寺院であると考えられていた。今となっては,プノン・バケンが9世紀の第一次ヤショダラプラの中心寺院であるものと知られているが,当時はプノン・バケンの山の上など調査されたことさえなかったのである。
バイヨン9世紀説は,一人の美術史家によって覆される。アンコールを一度も訪れることなく,バイヨン寺院の編年に修正を迫ったことでよく知られているステルンによるものある。11世紀,アンコール・ワットの建立直前にバイヨン寺院が建立された,というのが彼の新説であった。未整備な土地に熱帯雨林という過酷な環境に身をおかずして1927年に提出された彼のこの論説は,アンコール遺跡を現地で調査している研究者にとっては,辛酸を舐める思いで受けいれられた。
同年1927年には,建築考古学者パルマンティエによってバイヨン寺院が複数回の増改築を経て今見る姿に至ったことが示された。また,それまで仏教モチーフはほとんど確認されていなかったバイヨン寺院において,増築によって隠されていた破風飾りに観音菩薩像が彫刻されていることが明かとなり,寺院の主尊についても物議が醸し出される。
ステルンの年代改訂から2年後,今度は1929年,クメール研究の大家,セデスによってバイヨン寺院は13世紀に建立されたという説が提出される。アンコール・トムの周壁の隅に位置するプラサート・チュルンの碑文の記述に基づく説であった。結局,この説が今に至る定説となるわけである。
また,バイヨン寺院に代わる第一次ヤショダラプラの中心寺院には,ようやく1932年にゴルベウによる航空調査で見事発見されたプノン・バケンが落ち着くことになった。
バイヨン寺院ではプノン・バケンが発見されたこの年に,中央塔の一部が崩れ落ちるという惨事が発生している。それを受けて,その翌年の1933年には,中央塔の上部の補強工事が行われ,そしてついに,前回登場のトルーヴェによる本尊仏発見の発掘調査へと至るのである。
この時期に刊行された書物や論文を眺めると,アンコール遺跡の研究はめまぐるしく更新され,本流を突き進む研究が並んでいる。今見ると,羨ましいほどに大きな発見の可能性に満ちた世界である。(一)
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