アンコール遺跡を訪れる外国人観光客で,最近というより今年から突然のように目立って多いのは,ベトナム人である。数年前に韓国人観光客が多くなった時も隔世の感を抱いた出来事であったが,まさに世界はめまぐるしく変わっていることを,アンコールでも実感することができる。
世界は否応なく刻々と変わる。だからこそ変わらないものが必要だ,と改めて想う。アンコール遺跡の観光客の中で,日本はメジャー国の一つではあるが,人数にすれば全体の1/6〜1/8くらいのものであろう。但し5月の連休が過ぎると,バイヨンやアンコール・ワットも落ちつきを見せる。バイヨンの南経蔵の現修復現場に行った後,1999年に修復工事を終えたバイヨン北経蔵を具に見て回った。同じく以前に修復工事を終えたプラサート・スープラやアンコール・ワットの北経蔵も時々巡回する。修復後の傾斜や不等沈下の発生に関するケアはスタッフによる定期的な測量を行っているが,その他に修復に使った改良土に含まれる消石灰の施工不良などで,白華現象による汚れが表面に染み出していたり,あるいは全く予期せぬ不具合が発生していたりしないかチェックするためである。
急階段を昇ってバイヨン北経蔵の室内に入ったところ,全身白装束の3人が何やら一心不乱に祈りを捧げていた。床の敷石に残る丸い穴(オリジナル加工痕)に太いろうそくを立て,母親と若夫婦であろうか,祭壇や神像に向かってではなく,まさにこの場所そのものに向き合っているようでもあり,それにしてはどこかとても深刻な問題を抱えているような祈りの様子であった。
思わずその場所から離れ外を眺めると,バイヨン東正面の広大なテラスの北半分を占める祭壇に,これも白装束の人たちが大勢礼拝していて,読経の声明,鳴りもの,線香の煙,にぎやかな祭壇や周囲の(特に四隅)の飾り付け,お供え物の珍しさに引きつけられて,そちらを見に行くことにした。
1997年にカンボジアに内戦が勃発した時,当時のシアヌーク国王がこのバイヨン正面テラス上南寄りに祭壇を設営し,バイヨン全域を結界し,厳かに平和祈願式を奉祭されていたことが思い出された。それは,クメールの祖先神やカンボジア国内の土地神などが集合しているバイヨンへの,王室としての祈願の様子が拝察されたが,この時の連休明けのやや静かなバイヨンで,近隣の人々だけとは思えない男女多くの僧籍にある人々や拝礼の人々は,何故この場所に集い,何を祈っていたのだろうか。何人かの身近なカンボジアの人に聞いたけれど,特に何かの日なのか分からなかった。現在のカンボジアの人々はほとんどが仏教徒であるから,かつても今も本尊は仏陀像であり,バイヨンにお参りするのは当たり前かもしれない。しかしビシュヌ神を本尊とするアンコール・ワットでも,これほど盛大なものは見ていないが,時々中央塔周辺などで小さな集団にお坊さんがお説教をしていたりするのに出会った。何よりも,ワットの正面玄関楼に鎮座する巨大なビシュヌ神立像は,今でもカンボジア人の一番の尊崇の対象である,という文化人類学の調査もある。これらのことをツラツラと考えていくと,文化遺産としてのバイヨンの保存の目的は,勿論活用するためであって,教育,観光,歴史を知るためだけでなく,地域民族,国家の象徴としての文化遺産それ自体を大切に保存することも活用だと思う。しかし文化遺産は,そのような分かりやすい目的のためだけに活用されるのであろうか,という疑問にもぶつかる。
現在は,カンボジアでも,都市は勿論のこと,田舎でも,かつてのようには人々や地域の中にその土地の神々や祖先神が降臨しにくくなり,共棲しにくくなりつつあるのではないだろうか。バイヨン北経蔵の静かな室内や,バイヨンテラスのような聖なる空間,それがアンコールの時代よりももっと以前から人々が共にあった神々と出会う場所,神々が安心して降臨する場所であることを暗示しているのではないだろうか。
テラスの中の大勢の礼拝者の中から,突然おばあさんが一人立ち上がり,踊り始めた。周囲の人々には全く違和感がない。北経蔵での一心不乱の家族のように,彼等は神々と共にある。ここには恐ろしいほどの長く,不変な人々の歴史がある。そのためにもバイヨンは聖なる場所として,それに相応しく修復され,保存されなければならないのだ,と改めて思った。
(JASA co-director 中川 武)
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