2009年2月に実施した中央塔西室での発掘調査に引き続き,3月からは中央室にてボーリング調査を予定しています。発掘調査についての報告が尻切れトンボになっていましたので,新たにボーリング調査を実施する前に,一度まとめておきたいと思います。
2月23日より約10日間かけて以下のとおり,発掘抗の埋め戻し,解体石材の再構築の作業を行いました。
発掘抗の底に、「2009JASA」の刻印を押した鉛板を置き、将来的に再発掘調査があった際の目安としました。また、底には発掘時に掘り出した土とは異なる砂を敷き詰め、やはり将来の目印としました。昨年の中央塔の埋め戻し時と同様に,中央には塩ビ管を設置し,将来的にボーリング調査を実施する場合に,再発掘を省くための処置を施しました。解体時に劣化・破損していた石材は修復し、それらの石材の再設置も行いました。暗い室内で床面にでこぼこがあると危険なため,柱穴や台座周辺の窪みにはある配合にもとづいた土を詰め,平らにしました。
今回の調査は当初の目的からはやや外れて,予想外の経過をたどりましたが、いくつかの重要な事実と知見が得られました。それらを下にまとめます。
1.中央塔群の壁体直下には石材による支持構造体は存在しない可能性が高まった
これについては、昨年夏の調査で中央室内でも一部で確認されたことですが、今回は西副室である第6塔の北壁にて同様の結果が得られました。また、東西の扉開口部直下においても、支持構造体は認められず、これは中央室の西扉開口部の結果と整合的でした。
この点については,中央塔の基礎構造を考える上できわめて重要であるため,さらに,3月のボーリング調査時に中央室の北東エリアにて追調査を予定しています。
2.地下にはラテライトの構造体がランダムに配されている
西副室の発掘孔の北側壁ではラテライトが5材、柱状に積み重ねられているのが確認されました。発掘孔内の他の面では認められず,こうした石材は床面下に不規則に配されているように推測されます。1934年にEFEOの保存官マーシャルによって行われた塔12(中央塔群東側の塔)内での発掘調査の記録からも,やはり地下のラテライト造が南北で異なった配置をとっていることが認められます。
このことは何を意味しているのでしょうか?ただ単純に建設工事が粗雑であったということを意味しているだけでしょうか?その可能性も否定できません。
しかしながら,たとえば,今に見る中央塔群の建設前に前身の遺構が存在したことも想像できます。また,建設途中で計画変更があった可能性も推測しえます。
バイヨン寺院が増改築を重ねていることは,パルマンティエによって指摘されて以来,何度となく報告されていることですが,近年フランス人研究者クニン・オリビエが,これについて精査を加え包括的な整理をしました。
第一期には伽藍中央の背の高いテラスだけが構築され,その上には現在の中央室だけが配されていたと彼は考えます。この最初期の復元イメージにはいくつか疑問視される点が残りますが,中央東室(第2塔)の床面に残る柱穴の一部が上部壁体の下にのみ込まれているような状況からすれば,現在の姿とは全く異なった第一期の建物が存在していた可能性は十分に考え得るところです。
今回の調査からでは不明瞭な点も挙げられます。
その一つが、塔地下の鎮壇具の設置箇所についてです。
盗掘によって攪乱された土砂の中から,数粒の水晶が発見されたことにより,ここ西副室内にかつて鎮壇具が納められていたことは明らかといえるでしょう。
しかしながら,鎮壇具などが安置された塔の地下の明瞭な構造は確認することができませんでした。
室内に配された台座直下には円形の穴が穿たれていましたが、この直下には割栗石混じりの非常に緩い砂が盗掘孔に埋められていました。この緩い砂は、深さ120cmまでで,その下層では土の色は異なっており、また割栗石も白色のものとなったため、何らかの土層の違いがあることは明らかです。単純に考えると,この深さに鎮壇具が配されており,その下は建設時の土砂,上は鎮壇具が安置されていたものの,それらが盗掘された後に埋め戻された土,であったとすることができます。近年,修復工事中に南経蔵で発見された鎮壇具もおよそこの程度の深さで発見されました。
この120cmよりも下層では、砂がきれいで割栗石も分散して混ざっており、盗掘後にいい加減な作業で埋め戻されたようにはとても思えないのですが、しかしながら,砂自体は相当緩んでおり、盗掘孔側面の明らかにオリジナルな版築層とは異なっています。(ここで検出した割栗石は,流紋岩で火山灰系のたいへん目の細かいもので、この周辺ではクロム山に良く見られるものです。また気になるのは,この種類の石材の割栗石は中央塔直下の発掘からは認められませんでした。)
通常,塔直下の土層は堅く締め固められており,ここで確認されたような緩い土とは異なっています。
そのため,この塔内の盗掘孔はこの120cmの深さよりもさらに下方へと続いていると見ることもできます。当初は堅く突き固められていたものの,一度盗掘によって掘り上げられた土が,穴の中に再び投げ入れられた際に緩んだものと考えられるのです。
オリジナルの版築層の壁面を観察してみると,深さ約120cmあたりで小さな段差がみられます。ですので,このレヴェルで鎮壇具などが安置されていたなんらかの構造や仕組みがあったことがここからも推測されるところです。
このように考えると、過去の盗掘者はこの120cmの深さで,安置物を発見したものの,その下方に別のものがあることを期待してさらに掘り下げの作業を続けたのではないかと考えることができます。
盗掘者達はバイヨン寺院の各塔で隈無く盗掘を行っていたようですので,そうした期待は,他の塔での経験をもとにした確信に満ちたものであったものかもしれません。
各塔の中では建設工事にまつわり,地鎮祭に始まる様々な儀式が各建設の段階であったと想像されます。つまり、塔の地下には何段階かに渡ってそうした儀式に用いた奉納物が納められていることも考えられるでしょう。
ただ、今回の盗掘孔は歪んだ円形をしていますが、径の小さなもので、一人がようやく中に入れる程。この小さな穴の中で、それほど深くまで掘り下げられたかどうかは疑問が残るところです。
と、だんだんと考察が混乱し、思考が錯綜していきますが、こうした疑問を常にはらみながら、調査は一つずつ終わって、次なる段階へと進むようです。
最終的には、公式な報告書にて整理された調査結果をご紹介いたします。(一)
*本調査は㈱竹中工務店からの研究助成を得て進められています。
コメント