コーケル遺跡群は、アンコール遺跡群の位置するシェムリアップより約80km離れた、当時は「チョック・ガルギャール」とよばれたクメールの古代都市の一つです。
アンコール王朝、第七代目の王「ジャヤヴァルマン四世」が王神をこの新しい都に遷したのが10世紀前半、921年のこと。しかし、この遺跡群が王都であったのはたった20年ほどの期間で、王の死と同時にすぐさまアンコールの地に再遷都された短命の都でした。
今日から、3週間ほど、この遺跡群の調査研究についてお伝えしたいと思います。
日本国政府アンコール遺跡救済チームでは、シェムリアップより遠方に位置する遺跡群の調査研究も進めていますが、ここコーケル遺跡群では2005年に早稲田大学の調査隊が調査を実施しました。この時の資料は遺跡群目録としてまとめられています。
その当時、遺跡群はカンボジア文化芸術省の管轄にありましたが、その後、アプサラ機構の管轄下に移動されます。現在では、アプサラ機構のスタッフ約70名が遺跡群内の各寺院の清掃、メンテナンス、ガードなどを進め、ここ数年の間に遺跡群内は見違えるように整備されました。
また、アプサラ機構により小規模ではありますが、貯水地の水門や王宮内と推測される地域3カ所にて考古学的発掘調査が実施されました。
文化芸術省とEFEOの共同研究であるCISARKでも、過去数年の間に、コーケル遺跡群の調査が行われ、網羅的に遺構の確認がなされました。
2007年からは、名城大学(代表:溝口昭則教授)と早稲田大学との共同チームによりさらなる研究が進められています。また、最近ではシドニー大学の調査隊が、主に衛星写真を利用したリモートセンシングにもとづく調査を進めているほか、今年2月からは3年間の大型研究プロジェクトとして、ハンガリーの研究者を中心としたRoyal Angkor Foundationによる調査が開始されました。
そういったことで、この遺跡群の研究活動は盛り上がりつつあります。
このブログでは、第6次ミッションとなる「名城大学+早稲田大学」の研究事業についてご紹介していきたいと思います。
今日2月21日が調査第一日目となりましたが、調査団第一陣となる4名は2日前にシェムリアップ入り。こちらに保管している機材チェックなどをすませました。
これまでに調査許可を取得した他、調査に必要となる衛星写真・航空写真・地雷撤去エリアの情報など各種の資料を準備しました。
また、先週のうちに、2週間前より現地調査を開始したハンガリー隊とのミーティングをJASA事務所にて数回実施。ハンガリー隊と調査成果の交換を約束するメモランダムを締結することとなりました。
数ヶ月ぶりに訪れたコーケル遺跡群への道は、前回よりもかなり悪くなっており、高速ドライバーで有名なわが調査隊の車でも2時間10分ほどかかりました。今回の調査は、日帰りを繰り返すことを予定していますが、道の悪化のため、現地滞在の可能性を考えざるを得ない状況となり、今日は近くにできたゲストハウスをのぞいてきました。数ヶ月前にオープンしたゲストハウスは、思った以上に清潔で、シャワーもついており、最寄りのスラヤン村に以前よりあったゲストハウスよりも格段に上等な宿泊施設でした。すぐには決められませんが、往復に毎日4時間以上を費やすことを考えると、こちらのゲストハウス滞在は望ましいようにも思われました。
さて、午前中は、現地のアプサラ機構担当官のソムナム氏との久しぶりの再会の後、ハンガリー隊の調査の様子を見て回りました。いくつかの調査が並行して進められていますが、写真測量による遺構の図面化、池や門といった寺院周囲の付属施設を取り込むための測量などが主要な仕事となっています。その他、陶磁器の表採調査やセスナによる遺跡上空からの調査なども興味深い内容でした。
また、私たちの調査隊の過去の測量について説明した後、実際に現存している基準点を紹介し、ハンガリー隊にも有用な資料の提供の相談などを行いました。特に、写真測量を進めている遺構において、地球上の精確な番地情報をこちらから提供することとなりました。
午後の調査では、二班に分かれ、第一班は遺構の選地条件を検討すべく微地形測量を実施するための対象遺構の選定を進めました。
第二班は、これまでにGPS測位>トータルステーションによる平面測量を終えた寺院において、残存する遺構の状況を読みながら復元図面をおこすための採寸をPr. Bantay Pir ChanとPr. Dの両遺構において実施しました。
夜はこのブログを書いている横で、現地計測の野帳をもとに、二名の学生が図面をおこしています。(一)
*本研究事業は日本国政府文部科学省科学研究費補助金による助成研究「クメール帝国地方拠点の都市遺跡と寺院遺構に関する研究」のもとに進められています。
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