中央塔の地下から発見された本尊仏は,果たしてどんな運命を辿り,今に至ったのであろうか?
まず,もう少し正確に本尊仏が発見された時のことを当時の作業記録をもとに確認しよう。
トルーヴェは1933年8月に発掘調査を開始した。そして,床面からの深さ1~5mにおいて,彫像の大半をなす石片を発見している。また,発見された際には,石片の一部に金箔が貼り付いていたようで,彼はこの彫像が当初は金箔で覆われていたのではないかと推測している。
さらに掘り下げ作業は継続され,最終的に深さ14mで発掘調査を終える。この深さにいたって地下水が湧き出し,掘り下げを断念せざるを得なかったのである。さらに,この発掘調査の底からさらに1mの深さでボーリング調査を行ったが,軟らかい土層しか確認されなかったことを彼は記している。
この掘り下げ作業の途中,深さ12.5mでは,本尊仏の基台の部材を2点と,本尊仏の手の一部となる石片2点を発見している。また,同12.5mの深さで,北側を除く3方向に水平のトンネルが掘られ,およそ主室の壁体と同形であることが予想される位置に,なんらかの石積みを確認している。
実際にこの作業を指揮していた彼の報告の中で,特に興味深いのは,以下の記述である。
「プラサート・アク・ヨムとバイヨンの東西断面について考察すると,プラサート・アク・ヨムの地下室は,ピラミッドの基壇のレベルよりかなり下方に位置している。もし,バイヨンに同様の法則を適応するのなら,この寺院の基壇の下にも地下室が存在しえる。ところで,この原始的な堀り方の竪穴は,理由なく作られたわけではない。従って,地面の下には現在は盗まれてしまっているが,貴重な宝庫が存在したはずである。宝庫は,砂岩ブロックの間,または私が想定するように地下の部屋の中にあるに違いない。従って,はっきりと確認するためには,私が掘り始めた縦穴をさらに掘り下げる必要がある。しかし,現在の地下水レベルがその最低位まで下がるには乾季を待たなければならない。地下水が最低位まで下がれば,作業は容易で危険は免れ得るであろう。」
さて,地下室の有無についての問いかけについては,わきにおいておき,まずはこの発掘調査の結果から生じる問題について考えたい。
一つ目は,主室の地下に当初は煙突状の円柱あるいは四角柱の石積みの構造があったのかどうか?
また,建立当時,この構造の中は空洞であったのか,あるいは土か何かで埋められていたのかどうか?
という問いである。
トルーヴェは地下12.5mの横穴の先で,なんらかの石積みの壁にぶち当たっている。それは,ちょうど壁体に囲まれた室内と同じ大きさの筒状の構造が,そのまま地下に連続しているような位置にあった。
つまり,そこから推測されるのは,巨大な荷重を受けている壁体は,床面の下でもそのまま石積みが連続して地下の支持構造体となっている可能性である。
しかしながら,この可能性については,2008年から今年にかけて実施した中央室内の発掘調査によって否定された。壁体の下にはラテライトが一層か,場所によっては二層確認されたものの,その下は版築土であり,地下に続く石積みは認められなかったのである。(ただし,説明は混乱するが,現在修復工事を進めている南経蔵で発見された基壇内部のラテライト造構造体は,床面直下の50cm~1mで一度版築土が挟み込まれて,その下から再びラテライト積みが連続しており,同様の構造が中央塔にも適用されているとすれば,我々が実施した主室壁体下のラテライト層直下で実施した横穴探査では,ちょうどこのラテライトによってサンドイッチのように挟み込まれた版築土層を突いてしまった可能性が残される。)
もう一つ,地下が空洞になっていた可能性については,かなり低いものと考えられる。というのも,筒状の石積みがもし壁体下に続いていたとしても,この内側全体が空洞であったとしたら,室内に当初安置されていた大きな仏陀像を,床面のスラブだけで支えることはできなかったであろうし,また,地下の筒状の石積みが,壁体よりも直径の小さなものであり,二重の構造となっていたとしても,その内側の筒を形作る石材は相当な数を要するもので,過去の発掘の際に少なからず発見されていても良いと思われるからである。
つまり,当初から室内直下に縦穴のような空洞は存在せず,そこは土によって密実に版築されていたものと考えて良さそうである。
さて次の問は,ちょっと唐突だが,この盗掘団は何者だったのだろうか?という疑問である。
主室内直下に縦穴がなかったと考えられることから,本尊仏の一部が深さ12.5mから発見されたということは,過去にこの深さまでは盗掘されて掘り下げられていたことを示している。順当に考えれば,本尊仏が破壊されたときに,併せて盗掘されたものと推測される。
室内に安置されていた仏陀像を破壊し,側室かどこかにそれらの石片を移動する。さらに床面を取り外し,締め固められた版築土を掘り下げてゆく。どこまで掘り下げたのか,そして何か地下室のようなものがあったのかどうかは定かではないが,トルーヴェが確認した15mの深さまでは少なくとも彼らは掘り下げに成功したことであろう。そして,我々が今年2月に行ったボーリング調査の結果に基づけば,床面から深さ19mまでは同質の砂層が連続していたことから,その深さまで盗掘団は掘り下げを行ったことも推測される。
この時の盗掘穴の大きさは定かではないが,少なくとも地下15m以上の深さまで穴を掘り下げ,さらに掘り出した土を引き上げるためには,直径2mほどの穴は少なくとも必要であったことだろう。つまり,高さ15m,直径2mの円柱形の空洞ができるわけで,その際に掘り上げられた土量は相当なものであったことが推測される。当然,中央塔群の室内だけでは土の置き場には不十分で,中央基壇上に盛り上げられていた様子が想像される。
盗掘団が最下部まで掘り下げて体よく宝物を発見したか,しなかったか・・・,は定かではないものの,彼らの作業はここで終えた・・・と考えて良いだろう・・・か?
さて,ここまで「盗掘団」と呼んできた彼ら,もう一度質問に戻るが,果たして何者だろうか?
よく知られているように,バイヨン寺院は,当初,仏教寺院として建立された後に,ヒンドゥー教寺院に改宗された。その際,寺院内の仏教モチーフはことごとく破壊され,代わりにその多くが,リンガのモチーフに削り「直された」のである。
そう,この集団,なにも一方的な破壊集団であったわけではなくて,まがいなりにもヒンドゥー信者であったわけである。
盗掘団もまた,おそらくはこのヒンドゥー信者であったことだろう。つまり,彼らは,憎き仏教寺院の鎮壇具を「盗掘」したというよりも,「取り替えた」のかもしれない。
再び,現在修復中の南経蔵の様子をお伝えしよう。ここでは,基壇の解体中,室内中央の小さな縦穴から鎮壇具が発見された。鎮壇具は幾層かの土層に分かれて複数見つかったが,この土層を精査したところ,建設当初の鎮壇具と,後世に再びこの穴を掘り下げて安置し直した二つの異なる時代のものが確認されたのである。
それぞれの時代については定かではないが,一方はヒンドゥー教寺院としてバイヨンが改修されたときの鎮壇具であると推測される。
つまり,そうなってくると,中央塔の地下の鎮壇具もヒンドゥー教寺院に改宗されたときに,「再」安置したと考えても良いわけである。その場合,当初の鎮壇具は遺失しているかもしれないが,少なくとも改宗時に治められた鎮壇具は,残存していることになる。
「盗掘団」という名を修正して,「ヒンドゥー教信者」は鎮壇具を安置した後,再び掘り上げた土を縦穴に戻してゆく。その際,いくつかの石材は深さ12.5mまで土を戻したところで穴に落ち,そして大型の石材は埋め戻し修了間近の深さ数mのところで穴に投げ込まれた。そして,再び床面を造り,そこにはおそらくハリハラ神が安置されたものと考えられている。
この一連のストーリーであれば,発見された仏陀像の石片が二つの深さから発見されたことも説明ができる。
もし,「ヒンドゥー教信者」ではなくて,単なる「盗掘団」だったとしたら・・・。
それなら,おそらくバイヨンでの成功の味をしめた後,次なる標的としてアンコール・ワットを狙ったはずではなかっただろうか?
しかし,アンコール・ワットは1934~35年の発掘調査によって,盗掘の被害は受けていないことが確認された。実際には,この発掘調査そのものが盗掘のようなもので,調査結果を記す図面はあるものの,確かな記録がなく,発見された遺物も残されていないのだが。
いずれにせよ,推測に推測を重ねた中でのこの話,どこまで的確に真実を追えているのかは全く確証がないものの,やはり中央塔の地下には,何かが残されていると考えずにはいられない。
(一)
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