コーンの滝 その2

クメールの遺跡たち

ところで,このブログはアンコール遺跡のことを書かなくてはならないので,少し話の方向を変えましょう。

今回コーンの滝を見たいと思ったのは,やはり石井先生が仮説として示されているメコン河とムン川をもって「東南アジア大陸部を東西に結ぶ古代文化のルート」があったのではないかということに,以前より強い関心があったことによります。これは,私が以前ある奨学金をいただいたときの面接で,面接官であった石井先生が話されたことの中にこの件がコソッと潜んでいたことがきっかけで,それ以来,いつか自分で調べなくてはならない,と勝手に使命のように思っていることなのです。

2004年に,アンコールの古都シュレシュタプラの調査を何度か行い,その後メコン河沿いのクラチエやストゥン・トレン,そしてコンポン・チャムのクメール遺跡調査の悉皆調査に,そして昨年ようやくムン川沿いにも分布するドヴァラヴァティ遺跡の一部を見ることができました。そして,今回ようやくこのコーンの滝を見ることで,おぼろげながらにチャオプラヤー流域からムン川を経由して,チャンパサック,そしてメコン河に入ってタラ・ボリヴァット,サンボールを繋ぐ要所を確認することができたのです。

前に,少し触れましたが,なぜチャンパサックでクメール文化が発祥したのか,これは大きな謎です。港市国家として海岸付近にその前進の勢力は居を構えていたのですから。もしかしたら,チャンパサックがクメール文化の出自であるという前提自体が間違っているのかもしれませんが,これを追跡しようとしたとき,どうしてもインドからチャンパサックへの文化の流入路を調べておく必要があります。インドに発する外来文化が,ベンガル湾からこのチャンパサックに入ってくる経路がメコン河とは別にあるのではないかという説は大変魅力的なものです。

ただ,本当にまだまだ一部ではありますが,昨年訪れることができたドヴァラヴァティの遺跡を見る限りではやや疑問ももたれました。やはり文化が第一に流入した地域でもっとも高い精度の作品が創られ,そこから周囲へと伝播するうちに基本形は少しずつ崩れ精度を落としてゆく。一方で,別の発想を組み入れながら新しいものが発生するときに,先の技術力を上回る稀な事例があって,それが新たな基本形を創り出す。というようなプロセスを考えた場合,ドヴァラヴァティがワット・プーやタラ・ボリヴァットに先立っているとみるのは少し難しいような気がするのです。

文化の伝播や発展そのものにもたくさんの疑問があります。いったいどの程度の速度で文化は移動したのだろうか。グレートジャーニーのような,何百年何千年もかけたゆっくりとしたものではなかったでしょう。かといって,ハリウッド映画が一夜にして全世界中の人々に興奮をもたらすような速度でもなく。

また,美術史学的にみたとき,建築や彫刻といったモノのカタチに代表される図像的な表現はどうやって変化してゆくのか。スポーツ競技のマテリアルや自動車のデザインが技術や機能と符合しながら刻々と変化し,ニーズそのものを刷新してゆくのとどれほど違うことか・・・。

しかしとにかく,私はまだまだムン川沿いの文化については無知にも近い状況です。大河メコンのように大きな対象を前にしたとき,各流域を少しずつ断続的に繋ぎ合わせて,いずれその大河の全容が掴めるかもしれない,と微かな期待を抱くように,大陸部の「古代の東西文化交流ルート」もいつか全貌が見えてくるかも知れません。そうしたら,その先にさらにインドまでのルートが影を潜めて待っているのでしょう。そして,もう一方に中国への。



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