先日、村ブロ(カンボジア村ブログ)の中で、アンコールクラウ村の道が、大雨のため寸断してしまった、というニュースをお伝えしました。(クラウ村の危機!?1、2)
本日は、そのクラウ村危機の続報です。
あの大雨の10月から早1か月以上が経ち、カンボジアはすでに乾期に入っています。日中はさえぎる雲もない空から燦々と陽光が降り注ぎ、夕日も観光客の期待に応え、今が一番の見せ場というように、毎日張り切って赤く燃えています。
もはや雨の影さえ見えない季節。クラウ村の崩壊した道路も、よりパワーアップして復活しました。
こちらです!!左が崩壊した直後の様子。右が復活後の姿です。
さらに、今後同じような大雨が来たときに備えて、道の下に土管を埋め、排水機能も完備。
この道は、クラウ村の有力者たちがお金を出し合い、村の人たちが労働力を提供して復興したものです。その足跡を残すため、道のわきには石碑も建てられました。
このシンプルな石碑には、「誰誰さんが、いくら出しました」ということが一目瞭然に書かれています。お寺や公共施設でも出資者の名前と金額は、見えるところにはっきり書く!のがカンボジア流。小さな村の中でも、例外ではありません。
ともあれ、今回は村に住む人たちが、自分たちの資金と力で道路を修理してくれました。JSTで支援をして修理しようか、とも考えたのですが、いつまでも私たちが援助するわけにはいかない。村の一番重要な道路だからこそ、村の人たちの手で直してほしい、という思いから様子を見守っていました。
大雨発生から、わずか1か月に満たない短期間で、ちゃんと修理された道路。
現在は、クラウ村コミュニティセンターでの、絵画教室や日本語クラス、音楽教育なども再開できるようになりました。先日は水上小屋までツアーのお客さんをご案内し、大型バスでも問題なく通行できることを証明しました。
そして、何よりも驚いたのは、「ブログを見ました。村の道は大丈夫ですか?」という問い合わせがJSTに多く寄せられたことです。
日本の皆さんが、クラウ村のことを身近に感じ、親身に心配してくれているのだな、と改めて実感し、JSTにとっても発見と今後の活動への後押しとなる出来事でした。
ご心配をおかけした皆様、クラウ村は無事、元気になりました。
今後とも温かく見守っていただけると、本当に嬉しいです。
(ま)
コメント
その節は大変お世話になり有り難う御座いました。
ご存じのこととは想いますが、服部長七の生まれは現在の愛知県西三河地方の碧南市です、私は隣の安城市の住まいです。
彼は東京で饅頭屋を営みその後何があったのかは解りませんが、三河地方に伝わる技法の「三河三和土(タタキ)」と「版築」を応用し主に土木工事を全国に施工しました。この地域にも多くの遺跡が残り保存されているものもあります、明治用水の頭首口や四日市の防波堤等が有名です。私も実見しましたが、本当に強固で現在でもびくともしていません。私はその技術を現代によみがえらせようと、2005年の「愛知万博」で再現しました、勿論岡崎の山本石工さん達の協力を得て施工しました。35度の斜面に「懸け造り・懸崖造り」の古窯保存用の木造建築を平安時代の様式で人力施工で設計・施工しました。階段状の基壇を版築で施工しました、先日も見に行きましたがびくともせずに建っています。また、「自立のための道具の会」の事業で地下式の雨水タンクの周りの埋め戻しに版築を応用しています、1万リットルの煉瓦タンクの補強と植物の根からの攻撃から守るために施します。ということで、是非道路や土橋に築造にご専門の「版築」を応用してみて下さい、日本の城郭建築や土木工事にも古代より多用されています「キトラ古墳」も「秦の始皇帝の墳墓」も版築です。専門の型枠大工がいなくても住民の自力で出来ると想います。ご検討をお祈りいたします。